高齢者問題をよりいっそう「他人事化」させる構造

先日、ある加入者の方がお亡くなりになったことを知りました。

ほっとラインが開設したばかりに加入された方なので、
とてもよく覚えています。

私はお会いしたことは無いですが、
ご自宅を訪問したスタッフからいろいろ聞いていて、
お名前と一緒に勝手に想像した面影が僕の中にあります。

事務所にその方のご親戚から連絡があったそうです。
自動でかかってきたあんしん電話をご家族の方が受けて、
調べてかけてきてくれたそうです。

その知らせを聞いて、一番最初はびっくりしました。
しかし、私の中に寂しさや悲しみは起こりません。

ほんの少しだけ私の中にある面影を思い出し、
加入当時のことをスタッフの方と少しだけ話す。

「万が一の時には、、、」と頼まれていたことがあったことを思い出し、
それはちゃんと直接電話に出たスタッフがご家族に伝えてくれてたようでホッとする。

仕事の手をとめて、私なりにご冥福をお祈りし、
その後、普通に日常業務に戻りました。

あんしん電話が無ければ、この方がこの世にいたことも、
この時期にお亡くなりになったことも、知らない。

知ることすらなかったことを知ることになり、
静かにその方の最後を思うに至ったご縁を不思議に感じました。

と同時に、自分自身の日常に「人の死」というものが
あまりにも少ないのではないかということも考えました。

埼玉の実家にいた頃は、ご近所のつながりもあり、
近くの方が亡くなったお話も耳に入ったし、
馴染みの方であればお通夜に行きました。

しかし、今住んでいる東京の家では、
近所に知り合いはいなく、亡くなった方がいるのかどうかも分かりません。

ご近所づきあいがあったとしても、今は同世代の関係で終始することも多く、
若い世代は若い世代で、高齢者は高齢の世代でコミュニティがクローズしています。

そうなると、訃報は高齢者のネットワークにだけ周ることになり、
昔ほど、若い世代に「人の死」を感じる機会がないのだろうと推測します。

そしてそれは、あたかも「自分は死なない」と
錯覚するような人生観を生み出すのではないでしょうか。

ここに、高齢者問題をよりいっそう「他人事化」させる構造があるように思います。

死や老いが、自分と無関係に感じざる得ない社会環境が現実にある中で、
あんしん電話等の見守り活動は、私は誰も老いていくし生を終える、という当たり前を、
改めて自分たちごとにしていく活動なのではと考えます。

あんしんネット 中尾